Writer 横内 美保子
博士(文学)。総合政策学部などで准教授、教授を歴任。専門は日本語学、日本語教育。高等教育の他、文部科学省、外務省、厚生労働省などのプログラムに関わり、日本語教師育成、教材開発、リカレント教育、外国人就労支援、ボランティアのサポートなどに携わる。パラレルワーカーとして、ウェブライター、編集者、ディレクターとしても働いている。
コンコースのスタバでラテを注文する。受け取りながら二言三言交わし、「いってらっしゃいませ!」と見送ってもらう。発車時間が迫っているときには、何も言わなくても「何時の電車ですか」と察して、「お気をつけて」と言葉を添えてくれる。
仕事の都合で長距離移動をしていた時期には、そんなふうに毎週2、3回はスタバを利用していました。その頃の思い出は彼女たちの笑顔で溢れています。
「人は資産ではない。資産は所有できるが、人は所有できない。人はビルやトラックや備品ではない」
「スタッフもマネジャーもCEOも、お互いを労働力や資産として扱うのはなく、人として尊重すれば、そこに知識と才能の宝庫を発見することができるだろう」
「信頼の基礎になるのは、人を大切にし、それを行動で示すという私たちの価値観だ」*1
そう語るのはスターバックス コーヒー インターナショナルの元CEO、ハワード・ビーハー氏。スターバックスを地方ブランドから全世界ブランドへと飛躍させた人物です。スターバックス コーヒー ジャパンの設立に関わり、1996年に北米以外の新市場における海外店舗第1号店を銀座にオープンすると *2、その後の6年間で世界中の新市場に400店舗を開いて、グローバル展開を成功させました。*1
スターバックスはすべての社員をパートナーと呼びます。それは「全員が同じ夢を追求するパートナーであることをいつも心にとめておくため」。
こうした考え方は、顧客満足度を向上させる上で重要な意味をもちます。
それはなぜでしょうか。
変化する実店舗の位置づけ
スターバックスの話の前に、現在実店舗がおかれている状況を押さえておきましょう。
スマホ経由のBtoC-EC市場規模は年々増加し、それとともにオムニチャネルも拡大しています(図1)。*3、*4
*ショールーミング:実店舗で商品の現物をチェックした上でECで購入すること ウェブルーミング:オンラインで調べて実店舗で購入すること
参考:トランスコスモス(2019)「トランスコスモス、「アジア10都市オンラインショッピング利用動向調査2019」結果を発表」図表2から筆者抜粋 https://www.trans-cosmos.co.jp/company/news/190315.html
ところが、実店舗とECの最適な融合はこれまで困難でした。*3
経営者の視点からすれば、どの販売チャネルであっても会社全体で売上が上がれば良いというのがふつうでしょう。
一方、それぞれの販売チャネルの組織体制が分離している場合は、それらの組織間で売上を奪い合うことを警戒し、社内で対立構造が発生しやすくなってしまいます。
特に、EC側への送客に貢献した実店舗と、実際の売上を計上するECをどう融合させていくかは、簡単なことではありませんでした。
しかし皮肉なことに、新型コロナウイルス感染症拡大によって実店舗の位置づけや役割が変化し、これまでの難しい状況へのブレイクスルーになったという見方があります。
ステイホームの影響で消費者が実店舗に足を運ぶ機会が減少し、ECの普及が加速しました。そうした状況にあって、多くの企業が実店舗の存在意義を再考し、コロナ下における消費者の行動変化に対応しようと努力しているのです。
ショールーミングは実店舗側からはネガティブな印象で捉えられていました。しかし、コロナ下で他社との差別化を図る企業の中には、あえて接客に特化するショールーミング型店舗を強化しているところもあります。
一方で、EC購入商品の店舗受け取り(BOPIS)は、着実に浸透し始めています。
BOPISは消費者にとっては好きな時間に商品を受け取ることができ、送料もかからず返品もしやすいというメリットがあります。
企業にとっても物流コストが低減化でき、ECから実店舗への送客といったメリットもあります。
以上のように、コロナ下で実店舗の役割に変化が生じましたが、ECの定着によって、アフターコロナでも実店舗の役割にはさらに変化が求められることが予想されます。
最も優れた企業文化はCX(顧客体験)とEX(従業員体験)の両立
世界156カ国に295,000人以上のスタッフを抱えるコンサルティングファームPwCが行った「世界の消費者意識調査2019」の設問の中には、「実店舗での買い物体験を最も改善するのは何か」という項目があります。*5、*6
この質問に対する日本人の回答では「取扱商品について深い知識を持った店舗スタッフがいること」が42%で、1位を占めました。
ウェブルーミングの場合、顧客は既にその商品について十分な情報を得ています。そのため、店舗では豊富な知識を備えたスタッフに対応してもらうことを期待しています。*7
また、最近はショールーミングの場合にも、顧客は店に行く前にレビューを読み、商品に関する知識を得ようとする傾向があります。
このように、顧客は以前より多くの知識を備えている分、スタッフに高い期待を抱いており、そうした顧客に対応するスタッフの負担は以前にもまして重く、ストレスを感じやすい状況が生まれています。
しかし、サービスの質を左右するのは、スタッフの知識や意識です。顧客と接点の多い業種だけでなく、接点の少ない産業でも、現場スタッフはブランドの顔であり、「最後の砦」なのです。
PwCはこうした状況をふまえ、EXの改善がCXの改善を導くと主張し、CXとEXの両立こそ最も優れた企業文化であると説きます。*8
そして、そうした企業文化を実現している企業の1つが、スターバックスです。
社員が自然にブランドアンバサダーになる理由
成功をシェアする
スターバックスはパートタイマーを含む社員に手厚い福利厚生を提供しています。
同社のウェブサイトを覗いてみましょう。*9
スターバックスの成功はパートナー(社員)によってもたらされ、その成功は共有されることがベストであると私たちは信じています。
業績や成果は社内全員でシェアしようという価値観です。その福利厚生は以下のように多岐にわたります。
- 健康保険:医療、歯科、眼科プラン、ヘルスケア、生命保険、障害・事故補償など、複数の補償レベルから選択することができる。
*筆者注:アメリカには日本のような国民皆保険制度がありません。 - 株式と貯蓄:割引価格の自社株(S.I.P.)と株式報酬プログラムへの参加が提供されている。また、退職金制度には会社からの多額のマッチング(掛け金を追加拠出して老後資産を増やすこと)が含まれている。
- 有給休暇:7種類の有給休暇があり、パートナー自身だけでなく、家族の病気に対しても有給の病欠がある。リテール部門(小売)の時間給パートナーには、有給休暇に相当する期間に働いた時間に対して、基本時間給の1.5倍の給与が支払われる。
- 育児休暇:有給の育児休暇がある。また、養子縁組、代理出産、子宮内人工授精に対して、最高1万ドルまでの“Family Expansion Reimbursement”を支給している。
- 教育:学費を100%負担し、アリゾナ州立大学のトップクラスのオンライン学位プログラムを通じて、コーチング、カウンセリング、アドバイスを受けながら、学士号を取得する機会を提供している。
- 通勤手当:通勤費を便利な方法で支給している。
- パートナー支援:CUP(Caring Unites Partners)基金によって、病気、家族の死、自然災害など、思いがけない状況によって経済的危機に陥ったパートナーを支援する。
利益より価値観
冒頭でご紹介したビーハー氏はその著書『スターバックスを世界一にするために守り続けてきた大切な原則』の中で、社員の賃金に関する興味深いエピソードを披露しています。*1
豆を仕入れる人、焙煎する人、店まで運ぶ人、下準備をする人、そしてコーヒーを淹れる人。この人たちのおかげでスターバックスがある。「人なくしてコーヒーなし」がスターバックスの信条だ。
上層部のマネジャーやエグゼクティブだけでなく、すべてのパートナーが会社に重要な貢献をしてくれる―それがスターバックスの信条です。
ビーハー氏はチームの大切な一員であるすべてのパートナーに正当な報酬を提供すべく、精一杯努力してきたといいます。
小売業や飲食業にとって、人件費の削減に努めるのは、ある種、王道です。
それと反対に、ビーハー氏は賃上げの実現に取り組みました。データを分析し、人権費の増加は売上の1パーセントに相当することをつきとめます。
大きな金額だが、なんとかなる―。
喜び勇んで賃上げをしたものの、大問題が勃発します。
実は1%というのは読み違いで、実際には2%を超えるコスト増だということが判明したのです。
皆、頭を抱えましたが、賃金を元に戻そうとする人は1人もいませんでした。
理念は利益より大切だったからです。
“みんなで力を合わせてがんばろう”なんて、事実でなければ口にできないし、あわす顔がない。すべての人を思いやるという価値観を曲げるわけにはいかない。
手厚い待遇は、こうした想いを形にしたものです。
このように扱ってもらった社員が積極的なブランドアンバサダーになり、それが顧客満足度の向上につながるのは、当然のことかもしれません。
財務的には大変でしたが、パートナーに公平な報酬を提供したこの一件は、スターバックスの輝かしい成功物語の1つだとビーハ―氏は語ります。
ビジネスでも人生でも、心から人を思いやれなければ、リーダーにはなれない。これがなによりも大切だ。
「顧客サービス業ではない」
そして、大切なのは、この「思いやり」が企業を越え、顧客へと広がっていくことです。
信頼は思いやりなしには生まれない。思いやりとは、自分よりも他人を優先することだ。毎日一緒に働いている上司や同僚やスタッフだけでなく、すべてのパートナーと、お客様や取引先といった社外のすべての人たちを自分よりも優先することである。
もっとも、ビーハー氏は「顧客」という言葉を嫌います。
スターバックスは「人」に対するサービス業であって、顧客サービス業ではないというのです。
コーヒーを売っているのではなく、コーヒーを提供しながら人を喜ばせるという仕事をしているのだ。
そうした理念は、当然のことながら、CXの質を高めます。
先ほどみた社員への手厚い待遇と、「人」に対する心からのサービス。
スターバックスは「思いやり」を軸に、CXとEXを両立させているのです。
最後にもう少し、ビーハー氏の言葉に耳を傾けてみましょう。
人がいなければ、私たちにはなにも残らない。もし人がいれば、私たちはコーヒーより大きななにかを手に入れることができる。人を育てれば、その人がビジネスを育ててくれる。これに尽きる。
資料一覧
*1 ハワード・ビーハー、ジャネット・ゴールドシュタイン 著、関美和 訳(2017)『スターバックスを世界一にするために守り続けてきた大切な原則』(電子書籍版)日本経済新聞社
p.74、p.43、p.209、p.131、p.6、pp.43-44、p.88、p.7、p.18
*2 株式会社 スターバックス コーヒー ジャパン「沿革(2000年度以前)」
https://www.starbucks.co.jp/company/history/fy2000.html
*3 経済産業省(2021)「令和2年度 産業経済研究委託事業 (電子商取引に関する市場調査)」p.62 pp.39-40
https://www.meti.go.jp/policy/it_policy/statistics/outlook/210730_new_hokokusho.pdf
*4 トランスコスモス(2019)「トランスコスモス、「アジア10都市オンラインショッピング利用動向調査2019」結果を発表」
https://www.trans-cosmos.co.jp/company/news/190315.html
*5 Price waterhouse Coopers「今必要なのは、消費者中心の指標:「体験からのリターン」世界の消費者意識調査2019」p.16、p.21
https://www.pwc.com/jp/ja/knowledge/thoughtleadership/2019/assets/pdf/consumer-insights-survey.pdf
*6 フィリップ ・コトラー+ヘルマワン・カルタジャヤ+イワン・セティアワン 著 恩藏直人 監訳 藤井清美 訳(2022)『コトラーのマーケティング5.0 デジタル・テクノロジー時代の革新戦略』 朝日新聞出版(電子書籍版)p.293
*7 Price waterhouse Coopers「CXとEXを融合させる―世界の消費者意識調査2019」
https://www.pwc.com/jp/ja/knowledge/thoughtleadership/consumer-insights-survey/2019/customer-and-employee-experience.html
*8 Starbucks“Empowered to live life well”
https://www.starbucks.com/careers/working-at-starbucks/benefits-and-perks/
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